師匠と弟子3(短編小説)
(2章 色々な考え方)
この不思議な本屋にアルバイトに来て師匠と出会い、ちょうどに1ヶ月がたった。飲食スペースでの談義、講義、議論は毎日のことだし、何人かの客は私にいろいろと話しかけてくれるようになった。先日のイデア論のオヤッサンと私は呼んでるのだけど、その客も私がイデア論を調べたことに上機嫌になり、さらなる講義をあれから数日聞かされた。
まったく…いい迷惑のはずなんだけど、実はその話の半分も理解できてないのだけど、それでも知らないことを知るという楽しみを覚えてしまったことは事実だ。
ただし理解は追いついてないし、夕方頃には何人かに講義を聞かされて、それが客同士の議論になり、これだったら大学の勉強のほうがまだ簡単だった…と思えるほど頭を使い、バイトが終わる頃には自分の頭から煙が出てるんじゃないか?なんて思うほどだ。
さて、話を戻そう。私がイデア論に興味を持った、という話は常連客にまたたく間に広がり、客の大半が私にこう聞くようになった。
「理性に限界はあるかい?ないかい?」
私の答えはいつも同じ。ブスッとした顔で「わからない」と答えるのが精一杯だ。客の大半も少しからかいの意味も込めて言っているようだったので、こういった対応は逆に面白がられたし、目の前でクスクス笑う客だっていた。そのたびに顔が赤くなったのは言うまでもない。
ある日、同じような質問をしてきた客がいたので、逆に聞き返してみた。
「貴方はどう思うのですか?」
わからない、と言ってばかりじゃ私のプライドだって多少は傷つくし、逆に聞き返してやろうなんて短慮を起こしたのは、私はまだ子供だったに違いない。その言葉を言ってから数秒後に私はまたしても後悔の渦に巻き込まれるのだ。男は飄々とした風体でふち無しメガネ。40台代くらいだろうか?白いYシャツにジーパンという、いかにもラフな格好の細い男だ。
「ふむ…私は理性に限界はあるとわきまえてるよ。私の専門は自然科学だがね、それでも科学を論じるのに哲学が必要な場合もある、いやむしろ科学と哲学は突き詰めていくと、同じ世界を別々のところから、別々の視点から見ているのにすぎないのかもしれない。」
男はスラスラと自分の回答を、こちらの態度すら気にせずに述べていく。よっぽど言いたかったのか、それとも男にとってはこれは自然過ぎる問だったのか。どちらにしてもこれはきっと長いぞ、と覚悟を決める。帰る頃には私の頭からまた煙がプスプスとのぼっているに違いない。
男は意外な言葉を発した。
「君は大学に行っていたみたいだが、専門は何だったんだい?」
私は恐る恐る、いやこういうパターンは初めてだったので面食らいながら「経済学部です」と答えると男はまた質問をする。
「ほう、どの系統の?新古典派かい?ケインズかい?いやまぁ…今の大学だと新古典派だろうね。ひどく退屈な授業だったろう」
そう言うと男は笑いながら更に言葉を続ける。「ここで聞いた話と大学教授の授業、どっちが面白かった?」と。私は即答する。
「ここの話は難しいけど面白い。授業よりはよっぽど」
男お話によるとこうだ。色々な考え方はあってもいい。しかし人間は2000年、いやそれ以前からいろいろ考え、いろいろと追求してきた。自然科学の分野においては積み重ねが理性の幅を広めてくれるが、社会科学においては人間への理解というものが大切で、それはたくさんの経験を積まないと理解が出来ないのだ。その意味において人間の理性は無限大ではありえないし、必ず正解を見つけられるとは限らない。社会科学における真実とはいつもいびつな形をしていて、それを正確に捉えられるのは理性ではなく、多面的に検証し、その検証を出来るだけの常識を身に着けていることだ。それは経済学も同じだ、と言う。
「そんな話は初めてです。モデル、理論そういったものを暗記するだけで精一杯で」
と言うと男はまた「そうだろう、そうだろう」と言いながら笑った。
「私は経済学なんてものは専門じゃないので、大きなことは言えないがね。経済学とは人の生きる営みの集合した学問だろう?であれば基本はやはり人というものの本質に迫らなければいけないんじゃないか?人の社会は私は複雑系の自然科学としても捉えられると思っている。
そういった意味で理性とは何か?を最初に考えるのは良いことだ。これを読んでみたらどうかな?」
男は本棚に本を探しに行きすぐに戻ってきた。そこには一冊の小さな、これだったら読みやすいだろうなと思わせるサイズの本が手に取られていた。表題は「保守ってなんだろう?」
いやに政治的なタイトルだなとは思ったのだが、男から手渡され初めに、の部分だけパラパラめくる。どうやらコールリッジという19世紀くらいの人の研究本らしい。
男はニカッと笑いながらこう言う。
「これは君がここで一ヶ月、アルバイトを続けたお祝いだ。なんせ店主があの寡黙さだからね。ここに来るアルバイトは1週間とたたずに、ほとんどが寡黙さに耐えられずにやめてしまうのさ。読む本も普通の若者には無いしね、この店は。一ヶ月も続いたアルバイトは何年ぶりだろう…というよりいたかな?」
と、そこに師匠が二階から降りてきた。
「友島さん、ちゃんとお代は払っておくれよ。プレゼントならね」
そう言って二階にまた登っていく。それだけを言いに来たのか…小難しいだけじゃなく、わからない人だというのが未だに正直な感想だ。
だけども初めて知った客の名前は友島というらしい。なによりプレゼントというのがこんなにうれしいものだとは思っていなかった。読まなきゃいけないのは、少々重荷だけど、などとうそぶいてみる。きっと薄めの小さな本、というのも友島さんの気遣いなんだろう。
「じゃぁな、若者。読んだら感想を聞かせてくれよ!」
そう言って友島さんは会計を済ませ、店を後にする。おかしいな、そう言えば友島さんと話をし始めたのは4時くらいだったはずなんだけど、いつの間にかもう夕暮れを通り越して夜になってる。
私は階段のそばに駆け寄り「そろそろ閉店の準備しますね!」と大きな声で呼びかけると、いつもの様に「あぁ、たのんだよ。帰る時に声をかけてくれ」とお決まりのセリフが師匠から返ってくる。
私はつい、調子に乗っておどけた声で言ってみた。
「あの~僕にプレゼントは?」
師匠は呆れながらこう言う。
「なんだい、小難しい本を2冊も同時に読むのかい?おまえさんの脳みそじゃまだ無理だ。今度だな。わかりやすい本でも選んどいてやるよ。それより帰る時に給料取りにきな。いらないなら結構だがね」
心なしか師匠の声がいつもより嬉しそうだった、というのは私の勘違いだろうか?
なんにせよ私はこの本屋で初めての給料と、そして友島さんからプレゼントされた本を握りしめて帰宅の途についたのだ。やけに今夜は月がきれいに見えるな、などと少々キザったらしい感想を口にすることで、自分の気持ちを確かめるように。
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