師匠と弟子2(短編小説)

(1章 変わった客ばかり)

師匠の本屋には小さな飲食スペースがある。本屋で飲食していいのかどうか?というよりはこれは本来飲食スペースだったのだろうか?といろいろ疑問が出てくるが、客がそこを飲食スペースだと認識していて、実際にコーヒーを飲みながら本を試し読みしていたりするのだからそうなのだろう。


本屋のアルバイトは仕事としては、ネットで言われているように本当に楽だった。大体、一日に10冊も20冊も売れるわけでもない。漫画も週刊誌も無いんだから当然なんだが。店番を任されてもレジに客が持ってきた本を打ち込んで、お釣りを渡してとそんな作業を一日に数回するだけなので、はっきり言って暇だ。こうなってくると漫画が無いのが恨めしく感じるし、時間つぶしに小難しそうな本を読む、なんて気にもならないので自然とやることは客の観察になる。


この本屋は変わった客ばかりだ。本は売れないのに、客足は途絶えない、というより誰かしら飲食スペースで談義していたり、議論していたり、試し読みしていたりといった具合だ。何を喋っているのか?なんて最初こそ興味はなかったが、話題は哲学、政治、軍事、思想、経済、歴史といわゆる大学で言えば文系と呼ばれる話題が多いようだ。


「そりゃそうだ、だって物理や科学の本だってないんだから…なんだって、こんな辺鄙な品揃えにしてるんだ?」


一人で退屈の中で「やれやれ…」と肩を少しすくめてみせる。


「おい、君」

「正確な正三角形は書けるかい?」


一人の男が突然私に喋りかけた。見た目は40代から50代前半といったところだろうか?良い風に言えば恰幅のいい、悪く言えば小太りの、いつも来ている、そしてどこにでもいるようなニコニコと笑みを絶やさない普通のオッサン、というような印象の客が唐突に、そして意味の分からない質問を投げかけた。


一応これでも大学はいってたし、正三角形の定義くらい私だって知っている。いや、普通に考えれば小学校か中学校で習ったはずだし、そんなものは誰にだって書ける、と言うようなことを答えると、男は少しがっかりした顔をしながら先ほどの私と同様、肩をすくめる動作をした。からかわれているのだろうか?なんて一瞬思ったのだけど、この男の風体はそうだとは感じさせないし、何よりこの男は一応、客だ。不快だと態度に出すのも不味いだろうと思い直し、聞いてみた。


「あの…意味がよくわからないのですけど…」


言葉を発した瞬間の私の素直な心境は「しまった…」だった。なにせここ数日、この本屋でアルバイトを始めてから観察していてわかったことは、ここの客は談義、議論、講義が大好きな客ばかりだし、それに巻き込まれることは避けようと、本能的にしていたのかもしれなかったのだけど、正三角形なんてキーワードからそう繋がるとは思いもしないじゃないか!


「イデアという認識を知ってるかい?古代ギリシャの哲学者プラトンが説いた説なんだがね…」


正直な所、男の話はよく覚えていないし、理解が追いつかないと言えば正確な表現になるだろうか?たっぷりと1時間ほどは話を聞いていただろう。ただ不思議と退屈な話ではなかったし、何かSF小説の一コマを聞かせられているようで、ドキドキとした高揚に似た気分が私の中にあったのも事実だ。イデア論か…とその名前だけは覚えたし、メモをしておいて帰ったらネットで調べてみようという気には、少なくともなっていた。


何よりもそれを語っている時の男の表情、しぐさ、そして印象は大学のどの教授よりも情熱的で、それでいて優しそうだったというのが原因なのかもしれない。

そんなことを考えていると師匠が二階から降りてきた。


「あぁ、正三角形の話が二階まで聞こえてたよ。おつかれさん」


師匠はそう言うと煙管を取り出し、一服しながら「なんだ、メモしてるじゃないか。イデア論を調べるつもりかい?」と優しげで、そして枯れた眼光で私に質問した。そして客がいないのを確認するとポットからコーヒーを2つ入れて、私に飲食スペースまで運ぶように無言のまま煙管でジャスチャーし、座るように促した。


「あいつは昔からそうで、話始めると長くなる男だ。まぁ…もっともここの客の殆どがそうだがね」

「少し興味を持ったのなら、簡単にだけ教えてやろう。イデアというのはこことは違う世界だ。そうだな…全ての理と真理が存在する世界、とでも言っておこう。これは哲学の話だ」

「ふむ…長話をするつもりはないから安心しなさい」


こちらの心を見透かされているようで、少し気恥ずかしくもなったのだけど、師匠は普段から言葉が少ないし、なにより雇い主と話をしない空間というのは22歳の私には焦りのようなものがあったので、むしろ話をしてくれるということで安堵感に繋がった部分があったのは事実だ。


「プラトンは誰もが認める偉人だ。彼の正三角形の例えは、理性でそれがある、と認識できても現実には無いこともある、とたったそれだけの話しだ」

「その理性がどこから来ているか?と考えると、プラトンはそれがイデアから来たのだという。今の言葉で言う暗黙知というやつだな」


ここまではなんとなく理解が出来るような気がする。いや、理解した気になれた気がすると言ったほうが正確なのかもしれない。師匠はコーヒーをすすりながら、煙管にまた葉を詰めて一服し、もう夕暮れになろうという外の軽い薄暗さを遠い目で見つめ、最後にこういった。


「そろそろあがる時間だな…まあ、興味があるなら、この続きは明日だ。少し自分の頭で考えてみるといい。」


私は夕暮れのオレンジ色の景色の中、時々空を見上げながら師匠の言葉、そして客の男の言葉を記憶から掘り出し、反芻し、思考を巡らせ、様々な言葉とベクトルに翻弄され、グルグルと同じ所を巡りながら、それでいて出口があるはずだ、という確信のもとに思考の渦に飲まれていく。

大学ですらこんなに頭を使ったことはなかったし、就活だってそうだ。一つだけ理解できたことは、今まで自分が考えるということをあまり重視してこなかった、いや、時間や単位、おべっかや体裁に追われて、そういう機会が殆ど無かったということだけだった。


面接の時に師匠は「知らないことを知っている」と言ったが、今はじめてそのことを知ったのかもれない。こうして私と師匠の小難しく、奇妙な関係は、正三角形を正確に書けない変な客によって一歩前進したわけだ。

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