師匠と弟子1(短編小説)

(序章)

師匠はいつも小難しいことばかりを言う。私が師匠の弟子になる選択をしたのはある晴れた、青空の広がる4月の事だった。大学を卒業したばかり、就活なんてあまりしてなかった、と悔し紛れに言うけど、実はことごとくお祈りされただけの話だったし、なんだかもう自分の人生どうでもいい、なんて思いも少なからずあった。母からは「大丈夫だから」と哀れみと同情に似た励ましを貰ったが、それすら私には辛かった。父からは無言のプレッシャーをつきつけられているように感じたし、毎日フラフラしているわけにもいかない。そんな中で弟子入り、というと正確ではない、単にアルバイトとして街角のどこにでもある普通の本屋にアルバイトに入った、というだけだ。


ネットで「本屋のアルバイトは楽」なんて書いてあったから、という理由もないわけではない。いや、それだけが理由だと言っても過言ではない。この奇妙な師弟関係はそんな私の怠惰と人生の幸運、いや不運が巡りあわせたものだったのかもしれない。面接の時にはややドキドキしながら電話を入れると、履歴書は不要だという。「バカな!そんなバイトがいまどきあるものか!」ときっと大勢から言われるだろう。ここからが師匠の変なところだ。その人の履歴は知性によってのみ測られるものであって、だから履歴書なんぞいらん、と言うわけだ。まったく意味のわからない所に電話してしまったものだ。


知性によって測られると言われると、どうにも何か本でも読んで自分をアピールしなきゃいけない気持ちになるから不思議なもんだ。とは言っても面接日時は電話をしてから次の日だったので、しょうがないから大学時代に勉強をしていた、いやしてるフリをしていた経済学の教科書を開き、なにかアピールできることが無いかどうか?と調べるフリをしてみたりするけど、結局は母に呼ばれいつもの夕食を食べた後には眠くなり、何もしなかったというのが実情だ。だいたい街の本屋にバイトするのに知性を測られるなんて、そんなことはどうせあるはずがない、街の本屋の主人の知性なんて大したことは無いだろう、そんな思い込み、いや常識的な判断があっただけなのだが。


こう見えても私はそれなりに怠惰で俗情的で就活にすら受からないけど、それでも常識人のつもりだ。ただ面接に行くのに就活ならスーツ一択だけど、街の本屋のアルバイトにスーツはやや大仰かと悩んだりもした。結局、生活感のある普段の服でおとなしめのもの、そして履歴書は不要と言われたが一応持っていくことにした。なにせ就活に失敗した負い目で父からは無言のプレッシャーを受けているのだ。バイトくらいはして家にお金を少しくらい入れないと、このプレッシャーはなかなか跳ね返せないだろう。


面接の日は晴れだった。約束の時間の10時前には本屋のある公園の前、子どもたちが遊び、母親と思しき人達が談笑を繰り広げていた。どれもこれも日常の風景といった感じで、まさか自分がこれから非日常が日常になる、などとは思ってもみない自分自身に今更ながら同情を禁じ得ない。10時前、本屋に入った時にその異様さにあっけにとられたというのは、決して過大な表現であったとしても誇張ではない。


まず漫画がない。実用書もない。週刊誌も新聞もない。あるのはよくわからないクラウゼヴィッツだとかトクヴィルだとかハイエクだとか、少しくらいは経済学をやっていたので知ってる人もいたが、そういう本当に売れるのだろうか?と心配するような要するに、小難しく意味の分からない本ばかりだ。リカードの比較優位論で言えばそういう風に特化している、と取れなくもないが、ランチェスターの経営学本風に言えばニッチ戦略と言えなくもないが、とにかく異様なのだ。品揃えが。本当にアルバイトを雇ってやっていけるのか?とやや訝しみながら面接は始まった。


私は「あの…はじめまして、よろしくお願い致します。」とややぎこちないながら、就活にこれでは失敗するはずだ、と自分自身で思いながら履歴書を差し出す。師匠は無言でいらない、必要ないとジェスチャーをして唐突に質問する。


「知性とは何だね?電話の時に言ったはずだ、答えてみなさい」


その老人は煙管やパイプでも咥えたらきっと似合うだろうな、というようなある意味貴族的、いや古風?そんな風貌をした小柄な老人だ。年は恐らく60歳、いや70歳くらいなんだろうか。丸いメガネをかけてその瞳にはやや優しげな、そして枯れた眼光を宿している。いかにもこの偏屈な本屋に合いそうな老人であることだけは、そして恐らくあまり世間から常識人と評価されないような、そんなことだけは直感的に感じたのは今でも間違っていないと思う。


「知性…ですか?」


22歳の私にそんなことを尋ねるなんて、随分無茶な質問だ。就活にも失敗したくらいの知性だ、などと一瞬思ったが、それを口にだすのもはばかられる。いや、はばかられると言うよりは出したくない、と言ったほうが正しいんだろう、などと一瞬のうちに思いを巡らせ、こういった場合にどう答えたらいいんだろう、と考えるとどうもなかなか答えが出ない。師匠はおもむろに煙管を取り出し、宝船と書かれている袋から葉っぱとを取り出して火をつける。


「時間はたっぷりあるんだ。心ゆくまで考えてから答えなさい」


そう言いながらプカっと煙を吐き出し、外を見つめ煙管の灰を落とす。時計の音がやけに大きく響く。カチカチカチカチと。私の思考はいかにバイトに合格するか?よりもむしろ、今まで自分の培った勉強の成果をこの老人に見せることに集中していた。とは言っても勉強するフリをしていただけだから、ろくな知識なんて出てこない。巡り巡って出した言葉に私自身がびっくりしたのだけど、わからない、という言葉が私から紡ぎだされた。


「そうか…わからない、か。なら採用してもよいな」


自分自身の言葉にすらびっくりしているのに、老人は採用してもよいという。唖然とした顔で、だったと思うのだが、何故?と聞く前に老人が喋り始めた。


「わからない、ということをわかっている。22歳ならそれで十分だ。シフトは好きな時間、好きな時に入れなさい。ここで接客していれば、そして仕事していれば嫌でもわかるようになっていく。良い方向にも悪い方向にも。あぁ、でもシフトは一週間前には出すように。時給は750円だ。それ以上は出せないし、まぁバイトの募集紙にも書いてあるとおりだ。君はここで時給以上のものを得る、それだけは断言しておこう」


そう言うと老人は静かに席を立ち、シフト表を私に出して好きな時間帯を書きなさい、そしてそれはレジの上にでも置いておいておくれ、という。ここから私と師匠の奇妙で小難しい関係が始まったのだ。

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